社会人は労働力を提供し、企業は対価賃金を支払う…だけだ |
私はこの野村克也氏が好きではない。
選手としての野村氏は偉大であった。だが球界から退いたのち、御意見番としての野村氏には正直煙たさしか感じない。野村氏はことあるごとに野球選手の自由な発想を否定し続けてきた。有名選手でも「髪が長い」だの「髪を染めるな」だの「ヒゲを剃れ」だのとうるさいことおびただしい。
野球選手は事業主でもある。そして球団と契約を結んだ労働者でもある。選手は球団の望む成績を目指してプレイする。達成できれば年俸は上がるし、できなければ上がらない。その途中経過について、日本社会は口を挟みすぎなのである。
それに人間というのは成長するものだ。若い頃はやんちゃでも年齢を経るにつれて落ち着いていく。年齢相応の落ち着きを身に付けるものである。それまで待てないのか?
ダルビッシュ有投手を見よ。新人時代はタバコを吸ったり(ただし私個人は未成年であっても社会人であれば喫煙は問題ないと考える。この時のダルビッシュはまだ身分が高校生だった)、いろいろ羽目を外したりもした。プロ意識が低かったともいえる。だが最近の彼は有名人の問題発言にきわめて良識的なコメントをしている。
ましてや中田選手の場合、別に違法行為をしているわけではない。中田も年齢的にそのファッションが似合わないと思えばやめるだろう。それでいいではないか。
それなのに昔の価値観をいつまでも引きずって人のファッションにまで口を挟み、球界を牛耳っていると錯覚している老人ゾンビたちが気に入らないのだ。
かつて原辰徳・現巨人監督が若い頃「自分は花形満になりたい」と述べたことがある。
「巨人の星」での花形満はファッショナブルで高級車を乗り回し、そして常に冷静沈着な態度で快打を放つ。しかしその裏では非常な特訓をしているのだ。だがそんな泥臭い姿をファンに見せないのが花形の美学なのだ。プロはそれでいい。必死に汗まみれで練習している姿を誉めそやすマスコミがいる。そのためアピールの為か、わざわざ報道陣の前で練習する選手もいるのが日本のスポーツの実態だ。だがそんなマスコミも結果が出なければ手のひらを返したように冷淡になる。ならば泥臭い姿を見せる必要などどこにもないのだ。
これは社会全体に言えることだが、日本社会はビジネスにはシビアになっても良いが、経過にはこだわらない姿勢を取るべきである。
海外ではパソコンの前でポテトチップスを袋からポリポリかじり、ヘッドホンで音楽を聴きながら、キーボードを打つくらいは普通に見られる。皆さんも映画などでそういったシーンを見たことがあるだろう。
神妙な顔つきで一心不乱に仕事をしている姿勢を求められるのは日本の悪習である。そんなことをしても日本の仕事の効率の低さは指摘されている。
仕事は結果さえ出せば良い。それまでの経過は各労働者の好きに任せるべきである。