橋下よ、デモはアピールであって過半数行動ではないのだよ |
---橋下大阪市長のツイートである。
1963年8月、アメリカのワシントンD.C.で行われた黒人差別の撤廃(正確には有色人種に対するすべての差別撤廃。黒人が主体なので黒人による運動と呼ばれる)を求める「ワシントン大行進」では20万とも30万とも言われる動員があり、その後の差別撤廃へと大きく動くことになる。
1986年2月、フィリピンのマルコス政権は政敵ベニグノ・アキノ氏を暗殺した疑惑が持たれていた。その後の選挙でマルコス政権は勝利したが、選挙に不正があったと指摘する声が大規模なデモに発展。やがて「2月革命」と呼ばれる政権の交代へと繋がった。
他にも韓国の民主化デモ、黒人射殺などに対するアメリカでのデモ、鎮圧を命じた大統領が投獄されたジャスミン革命、ベルリンの壁を崩壊させた月曜デモ、昨年では香港の学生デモが記憶に新しい。これらは決して人口の過半数が参加したデモではない。
だがこれらの国や地域では、デモ参加者の声を聞かざるを得ない状態になった。数十万人の人間を動員するデモというのはそれほど権力者にとって打撃なのだ。なぜなら数十万の陰には声には出さない100倍もの賛同者がいることがわかっているからだ。
デモは多くの場合、法律の外で訴えかける力を持つ。先のデモが行われた国はその多くが選挙制度を持つ国である。彼らは選挙結果を覆して暴力で政権を奪い取ろうというものではない。選挙では反映できない部分を、代表して政権にアピールする役目を負っているのだ。
ところが橋下市長は13万人だか32万人だか(正直正確な数はこのさい問題ではない)の数字だけを持ち出して「たったあれだけの人数」と言っているのだ。橋下市長にはデモというものの目的や、こうしたデモが起きる問題の根幹が理解できていないのだ。彼には「数」がすべてなのだ。
橋下市長は府知事時代「選挙で勝つということは白紙委任されたということ」などという、民主主義国家の政治家として、いや仮にも法曹界に身を置いた者とは思えないトンデモな発言をしていた。
言うまでもないが、民主主義は数の多い主張を中心に据えつつ、少数派とも意見をすり合わせて落としどころを探ることが大前提なのだ。橋下市長の主張がそのまま通るのなら、世界中はすべて政権党の独裁政権ということになるではないか。
今回の法案には6割以上の国民が反対もしくは疑問を持っている。原発再稼働もそうだ。政権の意見が多数の民衆の意見と食い違ってきたとき、その食い違いを是正するためにデモは計画される。
また多数派だけではない。同性愛などの性嗜好少数派への差別をなくせというデモはどうなのか? デモで国家の決定が左右されてはならないのなら、永久にマイノリティは救われない。そんな閉塞した社会でいいのか?
橋下市長は「政治は選挙」「民主主義は選挙の多数決」「ゆえに過半数が全決定権を持つべき」という主張だ。だが選挙の争点は安保や原発だけではない。そうした民意との違いの隙間を埋めてアピールするためにデモは存在するのだ。
「数こそすべて」などという橋下市長は、児童・生徒に社会科を教えても笑われそうな劣悪な知性しか持っていないことをさらけ出したのだ。