ファシズムは民主主義の暴走した姿である |
一方、「ファシズム」という言葉も「独裁」と同義で使われることが多いが、実際は微妙に違っている。
ファシズムはその多くが始めは民意に支持されて発生したことが多いのである。よってファシズムはいずれ独裁につながるが、すべての独裁がファシズムから発生したとは言えない。
ヒトラーは国家社会主義労働党の代表だったし、ムッソリーニも国家ファシスト党の党首だった。熱烈な支持者がいたからこそ、公党として認知されたのだし、党首にもなれたのだ。よって銃剣を突き付けて国民を無理矢理従わせる独裁とは多少なりとも異なるのだ。
先日、教育評論家の森口朗が自ブログ
「太鼓を叩いていた子達に「民主主義」と「民主主義の敵」を教えよう」
d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/20150919
で無茶苦茶なことを発言している。
意見の違う相手を批判する言葉を使うのは「民主主義の敵」なのだそうである。結局は安倍政権の擁護なだけなのだが、政権を批判することを「民主主義の敵」とは驚天動地の珍論だ。加えて「多数決絶対主義」を唱えている。少数意見の最大限の尊重は民主主義のイロハなのに、森口氏はそんなことも知らないらしい。
これで「教育評論家」を名乗っているのだから、「教育評論家とは馬鹿でもなれる職業?」と揶揄でもしてやりたくなる。
森口氏の言う「多数決」とは議席数のことでしかない。一度多数の議席を取れば、それに反対する意見すら敵視する。木を束ねるように、多数の意見(実は議席数の多数であって、世論の多数ではないことは以前のエントリーでも述べたが)に絶対的に従わせようとする、森口氏の姿勢はまったくファシストそのものである。
では安倍はファシストなのか?
安倍は安保法制の反対論が6割を超えていたことは知っていたはずである。なぜなら安倍の周囲の政治家が「いずれ必要になることはわかる」と述べているからだ。つまり「反対論者が多くてもいずれ理解してくれるだろう」という意味である。よほど国民は馬鹿で、法案の中身を理解していないと言いたいらしい。
また数多くの憲法学者を呼んで公聴会を開いたが、そのほとんどを占めた違憲という見解にまったく耳を貸さなかった。よって安倍はファシストというより「独裁者」である。
世の中にはファシズムという言葉が付加される表現がいくつかある。
反捕鯨ファシズム、禁煙ファシズム、環境ファシズム、健康ファシズム…これらは無視できないほどの支持者を持ち、全世界が自分たちの考えと同じになるべきだと考えた末の現象だ。
民主主義とはいかに異なる意見にも注目できるか? にその価値があるといってもいい。選挙で支持されたのだからそれに逆らう者は民主主義の敵だ!などと述べるものには、その言葉そっくりそのままブーメランとして叩き返してやりたいものである。