2016年 05月 23日
教育をめぐる都市伝説~「ゆとり教育は日教組が推進」 |
2000年代の初めから中頃にかけ、「ゆとり教育」というものが推進された。詰め込み型の教育から、生きる力を養う「人間力」を持つ教育に、というのがゆとり教育の主眼であった。
それから何年かして、PISA(学力到達度調査)の順位が下がったのをきっかけに、「やはりゆとり教育はダメだ!」との声が高く上げられるようになった。私はこのように、極端から極端へ走る政策にはどちらにも不信感を持つが、それはともかく、「ゆとり教育を推進したのは日教組である」という意見が主にネトウヨの間で見られた。
だがこれはトンデモない大間違い。ネトウヨの無知かそうでなければ捏造である。
なお「ゆとり」というのはネット上では侮蔑的に使われることが多いが、これは「最近の若いモンは」と同じ、ただの偏見である。ゆとり世代の成績が悪いという根拠などない。
90年代末あたりから当時文相だった森喜朗らが中心になって教育改革が唱えられた。98年の学習指導要領では詰め込み教育からの脱却が図られ、00年に森が首相になると、今度は文相になった町村信孝が旗振り役となり「教育改革国民会議」なる私的諮問団体が作られた。
そこで論議されたことというのが、抱腹絶倒…いや今だから笑っていられるが、無茶苦茶なシロモノだった。
「奉仕活動の1年間義務化」「家庭には床の間の設置を義務化」「バーチャルリアリティの禁止」など、キ○ガイの発想としか思えない提案が並んだ。提案者のひとりは和製アパルトヘイトこと曾野綾子氏である。保守派の上坂冬子氏ですら「呆れてものが言えない」というほど狂気の発想だった。
そんな中で曾野の夫で作家の三浦朱門氏が、
「できの悪い生徒は勉強する必要はない、人間力を磨いて世の中に奉仕させるべき」
と述べた。委員の中には過激な優性主義思想の持ち主・江崎玲於奈氏もいて、「できない子は勉強よりも世の中に奉仕する人間に育てるべきだ」という方向に走っていったのだ。
さすがに「奉仕活動の義務化」などという徴兵制のようなことができるわけもなく、その代わりに導入されたのが「体験学習」である。と同時に、「体を使って体験することが大事で、勉強ばかりをするべきではない」という「体験型シバキあげ」のような発想が持ち上がったのだ。これが21世紀版「ゆとり教育」の正体である。
つまり「ゆとり教育は日教組が推進」どころか、日教組とはまるで正反対の、全体主義・選民思想から生まれた発想だったのである。
私はゆとり教育を全否定しない。確かに詰め込みだけではいけない部分もあるし、また知識というものを身につけることも重要だ。
有害なのは、これらの方針が自分の政治思想によって好き勝手に左右され、ちょっと結果が出なければすぐに打ち捨てるといった短絡的な発想であり、私はそこを批判したいのである。
それから何年かして、PISA(学力到達度調査)の順位が下がったのをきっかけに、「やはりゆとり教育はダメだ!」との声が高く上げられるようになった。私はこのように、極端から極端へ走る政策にはどちらにも不信感を持つが、それはともかく、「ゆとり教育を推進したのは日教組である」という意見が主にネトウヨの間で見られた。
だがこれはトンデモない大間違い。ネトウヨの無知かそうでなければ捏造である。
なお「ゆとり」というのはネット上では侮蔑的に使われることが多いが、これは「最近の若いモンは」と同じ、ただの偏見である。ゆとり世代の成績が悪いという根拠などない。
90年代末あたりから当時文相だった森喜朗らが中心になって教育改革が唱えられた。98年の学習指導要領では詰め込み教育からの脱却が図られ、00年に森が首相になると、今度は文相になった町村信孝が旗振り役となり「教育改革国民会議」なる私的諮問団体が作られた。
そこで論議されたことというのが、抱腹絶倒…いや今だから笑っていられるが、無茶苦茶なシロモノだった。
「奉仕活動の1年間義務化」「家庭には床の間の設置を義務化」「バーチャルリアリティの禁止」など、キ○ガイの発想としか思えない提案が並んだ。提案者のひとりは和製アパルトヘイトこと曾野綾子氏である。保守派の上坂冬子氏ですら「呆れてものが言えない」というほど狂気の発想だった。
そんな中で曾野の夫で作家の三浦朱門氏が、
「できの悪い生徒は勉強する必要はない、人間力を磨いて世の中に奉仕させるべき」
と述べた。委員の中には過激な優性主義思想の持ち主・江崎玲於奈氏もいて、「できない子は勉強よりも世の中に奉仕する人間に育てるべきだ」という方向に走っていったのだ。
さすがに「奉仕活動の義務化」などという徴兵制のようなことができるわけもなく、その代わりに導入されたのが「体験学習」である。と同時に、「体を使って体験することが大事で、勉強ばかりをするべきではない」という「体験型シバキあげ」のような発想が持ち上がったのだ。これが21世紀版「ゆとり教育」の正体である。
つまり「ゆとり教育は日教組が推進」どころか、日教組とはまるで正反対の、全体主義・選民思想から生まれた発想だったのである。
私はゆとり教育を全否定しない。確かに詰め込みだけではいけない部分もあるし、また知識というものを身につけることも重要だ。
有害なのは、これらの方針が自分の政治思想によって好き勝手に左右され、ちょっと結果が出なければすぐに打ち捨てるといった短絡的な発想であり、私はそこを批判したいのである。
by leftwing63
| 2016-05-23 09:00
| 社会(教育・学問)