御柱祭の死者続出に何も感じない鈍感 |
世界で最も危険な祭りとも言われる御柱祭のメインイベントとも言えるのが巨大なモミの木を倒して斜面を滑らせる、木落の神事である。
ところがこの御柱祭、6年に一度開催されるのだが、ほぼ毎回のように犠牲者を出し続けている。
今年2016年の事故は木落ではなく、直後の作業中の事故だが、そもそも高い柱に登って作業させることこそ危険である。
それにしても不思議だ。東海道新幹線の乗客の死亡事故は1995年の三島駅で起きた引きずり事故たった1件である。昨年には火災により2人の焼死者を出したが、あれは自殺であって事故とは言えない。つまり新幹線は半世紀以上にわたり、のべ100億人以上を運んでいるのに、死亡事故はたった1件なのだ。そしてその1件が大きく報道され、今も語り継がれている。
それに比べて、毎回のように死亡事故が起きている御柱祭の扱いの軽いことはいかなる理由か?
いや、むしろ危険な祭りということを、世間は興味深く面白がって見ているふしさえある。
「伝統神事だから」はもはや言い訳にはならない。そんなことを言い出したら古代アステカの心臓をえぐり出す生け贄の儀式も「伝統神事だから」で許容されることになってしまう。人権意識の高まりと同時に、危険の許容範囲も限定されていくべきものである。
学校行事でこれまでは当たり前のように行われてきた組み体操がエスカレートすることによって事故が続発し、ついには組段数の制限を設けるなどの対策が行われた。
もっともここでも「スポーツに危険はつきものだ」の思考停止な発言をする者はいたが、やはり安全優先という社会の傾向に逆らうことはできず、安全基準を厳しくすることで事故を防止しようとしているのだ。
よく言われるのは「リオのカーニバル」の例である。
「リオのカーニバルでは、毎回100人以上の死者が出ているのに、誰もやめようとは言わないではないか?」
実はこれには「リオのカーニバル」に対する誤解がある。死者といっても、それはカーニバルそのものが出す死者ではない。死者数は「カーニバル時期に、リオ・デ・ジャネイロ周辺で発生した自然死以外の死者」である。
もともとリオ・デ・ジャネイロは治安の悪い街として知られる。殺人事件など年に1,000件とも2,000件とも言われる。日本全国の年間の殺人事件よりも多いのだ。ましてやカーニバル期間には大勢の人が押しかける。「自然死以外」が増えるのは必然であるし、それをカーニバルのせいにすることは間違いだ。
これに対して御柱祭ではまさしく神事そのもので死者を出し続けているのだ。
もういい加減に「危険はつきもの」「伝統行事だから」で逃げるのはやめるべき時に来ているのだ。