鹿児島県知事失言の本質、女性蔑視ではなく学問侮辱 |
それはそのとおりだろう。
伊藤知事の発言は女性だけに向けられたものではない。伊藤知事は「サイン、コサインは、いったい何に使うのかねということは、従来からあって。きのうは、たまたまそれと女性を結びつけて、口が滑った形でしゃべった」と述べており、要するに女性・男性関係なく、「日常生活で使わない数学など教えて何になるのか」という発言こそ真意なのだ。
今から15年ほど前、曾野綾子氏が「二次方程式など教える必要はない。私はそんなものを社会で使ったこともない」と発言して物議をかもした。この発言と同一線上にある今回の発言である。
理系に進む人以外、三角関数などは日常生活で使う機会は少ない。だがこの世の中は「誰かが」理系に進むことで技術力を保っているのだ。そうした技術者にとって三角関数は数学という工作の技術の基本である。
多くの人は高校時代にはまだどのような進路を取るのかまだはっきりと決まってはいない。自分に合った道が理系かもしれないし、文系かもしれない。ならば全員が一度はそうした数学の技法に触れて、将来技術者や科学者の道に進んだときに役立てる場合が出てくる。まさに学問とはそうした目的のために身につけるのだ。
伊藤知事や曾野氏は使わなかったかもしれないが、世の中にはこうした技術の道に進む人も多くいることを完全に無視している。自分基準でしかものが見れない視野の狭い人物なのだ。
そこで「女性蔑視」の問題に戻る。
マスコミはこうした話が出ると、すぐに「女性蔑視、女性差別」などとそちらの方向に話を持っていきたがる傾向があるが、先にも述べたように、伊藤知事は三角関数の授業そのものが不要なのではないか、と言っているのだ。これは様々な学問に一度は触れて、自分の特性を見出すための行為、すなわち学問を身に着けることを侮辱している、そちらこそ問題にされるべきなのだ。
鹿児島県は今年度から月に一週、土曜授業を再開した。私はまったく世界の時流に逆らうだけの愚行だと思うが、シバけばシバくほど成績も上がると鹿児島県の教委は考えているのだろう。
そんな県から出てきた学問の軽視問題、これは鹿児島県が「学校とは成績を上げるためのもので、学問を身に着けるためのものではない」ことを示しているのではないかとさえ感じるのだ。