自由や民主主義を民衆が望むとは限らない |
では中国でどれほど民主化運動が巻き起こっているだろうか? 一部には確かに政府の抑圧に反発を抱き、民主化運動をしている人もいる。だが見ている限り、それらの運動は国民的な広がりを持っているようには思えない。十数億の国民がいるのだ。政府に反目する人が多ければ、とっくに民主化運動が激化しているだろう。だがそんな傾向にはなっていない。
なぜかというと、中国は現在、経済成長の真っ只中だからである。さすがにここ1~2年は成長も限界に近づいたのか、成長率に翳りも見えるが、それでも成長中であることには違いない。周辺国が悩まされる中国の覇権主義もそんな流れの中にあるように思える。
このように、政治的には抑圧されているのに、国民が自由や民主主義を積極的に勝ち取ろうとしない例はほかにも多々ある。
「レンティア国家」という言葉がある。詳しい意味は調べていただきたいが、簡単に言えば、国家が生産手段を持っているため、国民が税負担をする必要がない国である。
そしてこうしたレンティア国家には、専制国家が目立つのだ。特に代表とされるのは産油国である。中には普通選挙制度がある国も存在するが、結社の自由すら認められていない独裁国家も多い。そしてそれらの国でも取り立てて民主化運動などは盛り上がらない。
というのも潤沢な天然資源を土台に、税負担がなくても国民に十分な社会保障を行っていれば国民の間に不満は広がらない。このため産油国の多くでは(一部にはアラブの春のような現象もあったが)、経済が回っている間は、政治的自由などなくても構わないと考えているのだ。
実はこれは不当なことなのだ。というのは産油国のように、国土に天然資源が埋まっているということは、その資源は本来なら国民の共有財産のはずなのだ。ということは、政府は国民の財産を独占しているわけで、考えてみれば税負担なくして社会保障を完璧に行うのは立派なことでもなんでもなく、当然のことに過ぎない。
だが民衆はこれを政府による「慈愛に満ちた施し」と受け取るのだ。プラマイゼロの行為をなしているだけなのに評価されてしまうとはおいしい話である。
そこで、なぜこのような話を持ち出したのかというと、今回の参院選挙である。
野党側は改憲阻止を持ち出しているようだが、国民の大多数はそんなことには興味は薄い。改憲なんて現実味の薄い絵空事と感じているか、あるいは改憲されても、どうせ自分達の生活に影響はしないだろう、と考えているだろうということだ。
「イデオロギーでメシが食えるか!」とはかつて自民党の言葉であるが、選挙としての優先順位として、まずは惰性、次に地域利益である。
ましてや小選挙区1人区が32議席もある今の選挙制度では、ますます自由や民主主義などという目標は見えにくくなるだろう。オストロゴルスキーのパラドックス(主張している意見は少数派なのに、総合的な選挙になると勝ってしまうパラドックス)はいつどんな時にでも現れるのだ。
空気や水と同じく、自由や民主主義もタダで手に入ると思っている日本人は多いようだ。だがそれは不断の努力なしではいつでも権力に召し上げられかねない。レンティア国家でもない日本で、こうした現象が起きかねないのも不思議な国民性とは思うのだが。