スポーツを見るのが嫌になる時がある |
「スポーツに政治を持ち込む」論争に、過剰なまでに発展した時である。
それは「スポーツに政治を持ち込むな」という意味からではない。逆だ。スポーツの世界にも政治が入り込むことは避けられないのだ。
3年前、韓国で行われたサッカーの試合に韓国側応援席から李瞬臣や安重根の肖像画が掲げられたことがある。対して日本側は旭日旗を持ち出して応援した。そして肖像画・旭日旗ともに、後日強い批判にさらされたのだ。
李瞬臣、安重根といってもほとんどの日本人は興味がない。李瞬臣は豊臣秀吉の朝鮮出兵を阻止した英雄。安重根は朝鮮を支配しようとした伊藤博文を暗殺した人物だ。
ということは逆に考えてみよう。秀吉のコスプレでもして応援したりすると、「政治的」と言われても仕方ない。それには違和感は感じないのだろうか?
かつてドラガン・ストイコビッチ氏(私の好きなサッカー選手である。ちなみに大変な親日家でもある)が、内戦状態のユーゴをNATOが空爆している時に、「NATOは攻撃をやめよ」とユニフォームに書いた。これが「政治的発言」と見なされ、ストイコビッチ氏は注意を受けた。
だが自分を同じ立場に置いてみると、「○○は日本を攻撃するな!」と私も書きたくなるだろう。
Jリーグはヘイトスピーチにも神経を尖らせている。これはわかるのだが、自国の置かれた位置を表現するまで規制するのはやりすぎだろうと思う。
というのも、政治の側は何の遠慮もなくスポーツに入り込んできているからだ。
スポーツの側には「政治から離れよ」と説教を喰らわすくせに、政治がスポーツを利用する例は枚挙に暇がない。
かつてはナチス時代のベルリン五輪、モスクワ五輪の西側ボイコット、報復としてのロス五輪の東側ボイコット。さらにはこれ見よがしに焼け焦げた星条旗を持って選手団を行進させたソルトレーク五輪。そして有名な「サッカー戦争」…。
国内でいえば、スポーツ選手への政治的人気取りの国民栄誉賞の乱発など、政治の側はごく当たり前のようにスポーツに介入してくるのだ。
(早々にあの不愉快な森喜朗の顔が消えて欲しいとも思う)
つまり「スポーツに政治を持ち込むな」のスローガンとは裏腹に、「政治は好き放題スポーツに入り込む」のである。これではあまりに不公平ではないか?
選手だって政治的発言をしていいではないか?
笑いながらNPBの選手がMLBの選手に、
「今度は打席でおまえのカラッポのアトミックボムをニューヨークにまで打ち返してやるぜ!」
などという会話が聞けるのなら、その時こそ、スポーツが世界平和に繋がる時ではないかと思う。