2016年 09月 03日
くだらないDD論に陥った冷泉彰彦氏 |
私が何度か批判の対象にするのが「どっちもどっち論」すなわち「DD論」である。
大きな落ち度を持つAという事案と、それよりケタ違いに小さな問題を持つ、Aとは相反するBという事案がある時に、
「AもBもどちらも現実的ではない。どっちもどっちだ」
という言葉に逃げるのがDD論だ。DD論は思考停止の典型例でもある。
「貧困たたき」と『「貧困たたき」たたき』には、どちらも具体策がない
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2016/08/post-859_2.php
冷泉彰彦氏が8月30日にアップした上の記事は絵に描いたようなDD論である。
冷泉氏の意見をまとめると、
「大きな貧困をバッシングする人を批判することは、自分達よりも貧困層に位置する小さな貧困層をもバッシングするという回路に入っている。よって大きな貧困をバッシングした者と、それを批判した者はどっちもどっちだ」
ということになる。そして、
「貧困たたきをしている人も、それを批判する人も、根本的な解決策を出さないのだから、これもどっちもどっちだ」
ということにもなる。
そんなバカげた論はない。
まず、貧困たたきという下劣な行為に対してまずすべきことは、そのバッシングが正当なものではないということをはっきりさせることだ。ヘイトスピーチにしてもそうで、まず止めさせなければならない。ところが冷泉氏の言い分によれば、「解決策がないなら批判すべきではない」ということになってしまう。
それではすべての犯罪行為でも、まず犯罪の実行者への批判ができなくなってしまうではないか。
そしてその状況を作り出せば、笑うのは最初に不当なバッシングをした連中である。
なにせヘイトスピーチまがいの言論でも、「ヘイトに反対する側にも解決策がないではないか」という批判を浴びせることが可能になってしまい、これは最初に挙げた「大きな落ち度を持つAという事案」の強い応援となってしまうのだ。
DD論のダメなところはまさにそこで、「どっちもどっち」ということにすれば、それはより大きな責任を負わねばならない者の落ち度を相対的に小さくしてしまうのだ。
これでは「貧困たたき」側は「おお、ちょうどいい応援団のようなものが来た」としか思うまい。
貧困の根本的解決というのは経済学者や社会学者が頭をひねっても簡単に答えの出せる問題ではない。だがヘイトな「貧困たたき」は違う。世の中の批判によりヘイトな連中を黙らせることができる。
いじめが起きているなら、まずいじめをなくすことだ。いじめの社会的原因などはそのあとでも解析できる。それを考えに入れないと、問題の根本まで無意味に立ち返ってしまうことにより、責任の大きさを無視して「どっちもどっち」という考えているようで何も考えていない結論に片付けられてしまうのだ。
大きな落ち度を持つAという事案と、それよりケタ違いに小さな問題を持つ、Aとは相反するBという事案がある時に、
「AもBもどちらも現実的ではない。どっちもどっちだ」
という言葉に逃げるのがDD論だ。DD論は思考停止の典型例でもある。
「貧困たたき」と『「貧困たたき」たたき』には、どちらも具体策がない
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2016/08/post-859_2.php
冷泉彰彦氏が8月30日にアップした上の記事は絵に描いたようなDD論である。
冷泉氏の意見をまとめると、
「大きな貧困をバッシングする人を批判することは、自分達よりも貧困層に位置する小さな貧困層をもバッシングするという回路に入っている。よって大きな貧困をバッシングした者と、それを批判した者はどっちもどっちだ」
ということになる。そして、
「貧困たたきをしている人も、それを批判する人も、根本的な解決策を出さないのだから、これもどっちもどっちだ」
ということにもなる。
そんなバカげた論はない。
まず、貧困たたきという下劣な行為に対してまずすべきことは、そのバッシングが正当なものではないということをはっきりさせることだ。ヘイトスピーチにしてもそうで、まず止めさせなければならない。ところが冷泉氏の言い分によれば、「解決策がないなら批判すべきではない」ということになってしまう。
それではすべての犯罪行為でも、まず犯罪の実行者への批判ができなくなってしまうではないか。
そしてその状況を作り出せば、笑うのは最初に不当なバッシングをした連中である。
なにせヘイトスピーチまがいの言論でも、「ヘイトに反対する側にも解決策がないではないか」という批判を浴びせることが可能になってしまい、これは最初に挙げた「大きな落ち度を持つAという事案」の強い応援となってしまうのだ。
DD論のダメなところはまさにそこで、「どっちもどっち」ということにすれば、それはより大きな責任を負わねばならない者の落ち度を相対的に小さくしてしまうのだ。
これでは「貧困たたき」側は「おお、ちょうどいい応援団のようなものが来た」としか思うまい。
貧困の根本的解決というのは経済学者や社会学者が頭をひねっても簡単に答えの出せる問題ではない。だがヘイトな「貧困たたき」は違う。世の中の批判によりヘイトな連中を黙らせることができる。
いじめが起きているなら、まずいじめをなくすことだ。いじめの社会的原因などはそのあとでも解析できる。それを考えに入れないと、問題の根本まで無意味に立ち返ってしまうことにより、責任の大きさを無視して「どっちもどっち」という考えているようで何も考えていない結論に片付けられてしまうのだ。
by leftwing63
| 2016-09-03 09:00
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