「賛否両論」に逃げるのは愚の骨頂 |
「富山出身者は閉鎖的な人間が多い。だからうちの会社はなるべく富山出身者を採用しないようにしている」
などと述べて予想通りに炎上した。
ところがメディアはこの問題について、
「賛否両論があります」
などと報道していた。
これは最悪な報道姿勢である。
例えていえば、昨年の相模原事件についてネットでは犯人に共感または英雄視する投稿が少なくなかった。共感しているのは障害者を社会の邪魔者、厄介者扱いしている連中である。もちろんこうした意見は現代社会では全否定されるべきものである。
そこで報道が、
「容疑者の犯行には賛否両論があります」
などと伝えたらどうなるだろうか? 間違いなく激しい批判にさらされることだろう。なぜなら差別や排除そのものを今の社会は認めていないからだ。
前述の富山の企業の話にこれを当てはめてみよう。
富山出身者を採用しないというのはまさに差別と偏見によるものである。企業の採用はあくまでも個人を対象にしなくてはならない。そうでなくては差別主義者の意見と、良識者の主張が同じ重みで扱われてしまうことになる。
賛否両論で報道していいのは、比較するものが対称な場合のみである。
例として「○○に五輪を誘致する」というような事柄だ。こうした場合は双方の意見を持ち寄って「賛否両論があります」とやってもよい。
富山の企業が「富山出身者」を「韓国人の二世」とか「女性」とかに置き換えれば明らかに差別からくるものとわかる。
繰り返すが現代社会は差別を認めていない。よって一部のクズメディアは別として、誇りを持って報道を行っているメディアは決してこのような差別をもって「賛否両論」としてはならない。